オーヴェルニュ家(仏: Famille d'Auvergne)は、10世紀以降オーヴェルニュ伯領を統治した中世フランスの貴族家門。
歴史
先祖は9世紀末にオーヴェルニュ副伯(子爵)となった一族で、当時はアキテーヌ公領の構成地域だったオーヴェルニュの統治を担当していた。963年のアキテーヌ公ギヨーム3世の死に伴ってアキテーヌ公領内部で内紛が起きると、オーヴェルニュ副伯家はこの機に乗じて自らの権力を伸長し、オーヴェルニュ伯に昇格してアキテーヌ公の支配下から実質的に独立した。
ロベール3世伯(945年頃没)の死後、オーヴェルニュ伯家では内紛が起きた。ロベール3世の息子ギヨーム7世が伯領を相続したが、叔父のヴレ伯ギヨーム(8世)はギヨーム7世が第2回十字軍(1147年 - 1149年)に参加して不在となった隙を狙い、オーヴェルニュ伯領全域を横領してしまった。ギヨーム7世は若干の領地を分与されて、オーヴェルニュのドーファンを名乗った(この称号はギヨーム7世の母の実家アルボン家がヴィエノワのドーファンの称号を使っていたことに由来する)。これ以降、ギヨーム8世の系統がオーヴェルニュ伯領を、ギヨーム7世の系統がオーヴェルニュ・ドーファン領を治める形となった。
伯家とドーファン家はどちらも旧主アキテーヌ公爵家の流れをくむプランタジネット家の与党であったため、1195年以降、フランス王フィリップ2世と争うことになった。フィリップ2世王はオーヴェルニュの一部(リオンを中心とする地域)を占領し、1213年にこの地域をオーヴェルニュ領(Terre d‘Auvergne)としてフランス王領地に併合した。フランス王権の干渉はその後も続き、ギー2世伯のとき、伯が領内の高位聖職者との係争に追われているあいだに、国王側がオーヴェルニュ伯領全域を占領し、王領地に編入してしまった。1241年、旧オーヴェルニュ伯領に較べるとはるかに小規模なオーヴェルニュ伯領が新しく創設され、ギー2世の息子ギヨーム10世に授けられた。
オーヴェルニュ伯家は1424年、女伯ジャンヌ2世の死に伴い断絶し、その配偶者だったベリー公ジャンの子孫が相続権を主張した(ジャンは1360年、父ジャン2世王からオーヴェルニュ公領を分封領として授けられていた)。しかし伯領はジャンヌ2世の同族の従妹マリー1世とその婚家ラ・トゥール家に渡ることになり、同家はオーヴェルニュ伯家の正統な相続人であることを示すため、ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家の複合姓を称した。
一方、オーヴェルニュ・ドーファン家は1436年にドーフィヌ・ジャンヌ1世の死によって断絶し、その配偶者だったブルボン家のモンパンシエ伯ルイ1世が所領を相続した。
系図
参考文献
- Père Anselme, Histoire généalogique et chronologique, Band 8, Seite 47f
- Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln Band III.4 (1989) Tafel 732ff

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